読書 生きがいについて
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読書 生きがいについて1 - sazaesansazaesan’s diary
の増補です。
高校倫理で知った、『生きがいについて』の中のいい言葉を引用します。(引用は『神谷美恵子著作集1』みすず書房1980年初版)教採対策にもなりそう。
3章「生きがいを求める心」
P60 ほんとうは、驚きの材料は私たちの身辺に満ち満ちている。少し心を沈め、心の目をくもらせている習俗や実利的配慮のちりを払いさえすれば、私たちをとりまく自然界も人間界も、たちまちその相貌を変え、めずらしいものをたくさんみせてくれる。自分や他人の心の中にあるものもつきぬおもしろさのある風景を示してくれる。わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくとも、じっと眺める眼、こまかく感じる心さえあれば、一生同じところで静かに暮らしていても、全然退屈しないでいられる。
P65 さて自由とは何か、とひらき直ればむつかしいことになるが、自由な感じといえば、わかりやすい。山の頂きに立って、大空を仰ぎ胸をはり、思いっきり大気を吸い込む。下界の一切の束縛をはなれて、のびのびと呼吸ができる。高い木の上にとまっている小鳥のように、自分からどこへでも飛んでいけるような、その主体性、自律性の感情。この自由な感じこそ生きがいを感じるために、どうしてもなくてはならない空気のようなものであろう。それがどんなに必要なものであるかは、これも「欠如態」になってみないとわからない。
p70 「自己実現」と単なる「わがまま」の区別は、生きがい感と結びつけて考えてみれば明らかである。「わがまま」というのは、自我の周辺部にある、末消的な要求に固執することで、これがみたされても真の生きがい感は生まれない。これに反し、「自己実現」の場合には、実現されるべき自我とは、いわゆる「小我」ではなく、中心的、本質的な自我を意味する。この点についてはさいきんの岡潔・小林秀雄の対談(23)に述べてあることが参考になる。(注(23)小林秀雄・岡潔『人間の建設』新潮社、1965年)
6章「生きがい喪失者の心の世界」
p122すべて生きがいを失った人の意識において、心と体とはばらばらになる傾向がある。どのような原因からにせよ、自己の生きる意味をみうしなったひとは、生きて行きたくない人である。それにも拘らず生きて行かなければならないのは、肉体が精神の状況とは無関係に生きていくからである。
p135いずれにしても自分に課せられた苦悩をたえしのぶことによって、そのなかから何ごとか自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それはまったく独自な体験で、いわば自己の創造といえる。それは自己の心の世界をつくりかえ、価値体系を変革し、生存様式をまったく変えさせることさえある。ひとは自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自らの苦悩のなかから創り出しうるのである。知識や教養など、外から加えられたものとちがって、この内面から生まれたものこそいつまでもそのひとのものであって、何ものにも奪われることはない。
7章「新しい生きがいを求めて」
p153肉体に対せずつかずはなれずの適切な態度をとることは、人間にとってなんという難題であろうか。肉体から来る制約をすなおにうけ入れ、苦しいときは苦しみ、治療を要するときには治療をし、肉体の持つ自然治癒力を信じ、医学の力をもみとめ、しかもこれにとらわれないこと。肉体とはなれた存在価値というものを適切な形で意識すること。―これがどんなにむつかしいことであるかということを、これらの人々の姿はまだまだとあらわしている。
p160しかし生活のために働いていなければ人間としての値打がないということならば、世のなかには、ほかにも同列の人がたくさんいるはずであるが、彼らはみな価値がないことになるのであろうか。こういうものの考え方の根底には、人間の価値は経済力によってきまる、という価値判断がある。病気のため、その他の事情のため、働くことができなくなったひとは、自分も今まで無意識のうちに採用していたかもしれない上のような価値基準に対して再検討と変革を加えなくては、劣等感を克服することはできないであろう。
8章「新しい生きがいの発見」
p176生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。君は決して無用者ではないのだ。君にはどうしても生きていてもらわなければ困る。君でなくてはできないことがあるのだ。ほらほら、ここに君の手を、君の存在を、待っているものがある。―もしこういう呼びかけがなんらかの「出会い」を通して、彼の心にまっすぐ響いてくるならば、彼はハッとめざめて、全身でその声をうけとめるであろう。「自分にもまだ生きている意味があったのだ!責任と使命とがあったのだ!」という自覚は彼を精神的な死から生へとよみがえらせるであろう。それはまさに、地獄におちた罪人にむかって投げかけられた蜘蛛の糸にひとしい。
9章「精神的な生きがい」
p209ただ現実の社会の中では、学識にすぐ利得がむすびつきやすいので、知識欲も人間の名誉心や虚栄心によって汚染されがちであるが、もし純粋な知識欲や知的歓喜を見たかったらやはり現世から弾き出されている人々の間に行ってみたほうが早道(はやみち)である。今さら勉強しても、それが実生活の上で何のとくにもならぬ人、むしろ経済や健康やその他の面で邪魔にもなるような困難な環境のなかで、やむにやまれぬ心の欲求から、わずかな時間と金を工面して勉強するひとびとの中にこそ、「無償の」学究心が見られる。
p215らいを病んでいる人を観察してみても、それまでは美とは無縁と思われるような生活をしていた人でも、詩か歌とか、なんらかの表現法を手がけて行くうちに、それまでとはちがった精密さと角度でものを見ることを次第に見つけていく。この場合、やはり表現しようとすることが大切なのであろう。表現は創造に通じる。表現への努力がもののみかた、感じかたをきびしく、こまやかにするし、そのようにして見られたもの、感じとられたものはやがて自分のほうからひとりでに表現の道を求めてやまなくなる。ここに新しい世界の発見があり、創造がある。(下線部は原文では傍点)
p229単にある宗教集団に属してそこで行われている価値基準をうけ入れ、皆がやっている生き方を自分も採用するというならば、その集団が一般社会の中でどんなに特殊なものであろうとも、本質的には習俗に従うと生き方である点に変りはない。しかし、もしひとが自分で苦しんで生きる道を求め、新しい足場を宗教に発見したとすれば、その発見はそのひとの心の世界を内部からつくりかえるにちがいない。
10章「心の世界の変革」
p250現実の世界は苦悩にみちみちていても、それはもっと大きな世界の一部に過ぎず、そこに身をおいて眺めれば、現世でたどる人生のもろもろのいきさつは、影のようにみえてくる、重要なのは、今自分のうちにあり、自分をとりまくこの大きな力のなかで生きていることなのだ、その力が宇宙万物を支えているのだ―。このような肯定的意識が、単純な楽観主義とちがうところは、深刻な自己否定、現在定を経、またそれにうらづけられているところにある。ゆえに、たとえ歓喜や肯定意識がどんなに強くとも、そのために現実の世界の制約や困難や義務を忘れたり、避けたりするわけではない。むしろその歓喜の体験の中でつかんだものを原理として、現実の世界でそれに忠実に生きていくために、自己の道をえらびとっていくのである。その消息はブーバーの『われと汝』に、目をみはるほど劇的な表現で描かれている。
p252 -253結局、一時的に特異な心理的体験をするということそれだけでは、生きかた全体の上で大した意味を持ちえないのかもしれない。あるとくべつな心の境地になるということそれ自体を目標として生きることは、うっかりすると目的と手段とをすりかえることになりかねない。人間の根本的な、じみちな生存目標は、あくまでも自己の生命を誠実に、いきいきと生きぬくことであろうから。
p255一個の人間として生きとし生けるものと心をかよわせる喜び。ものの本質をさぐり、考え、学び、理解するよろこび。自然界の、かぎりなくゆたかな形や色や音をこまかく味わいとるよろこび。みずからの生命をそそぎ出して新しい形やイメージを作り出す喜び。―こうしたものこそすべてのひとにひらかれている、まじり気のないよろこびで、たとえ盲(めしい)であっても、肢体不自由であっても、少なくともそのどれかは決してうばわれぬものであり、人間としてもっとも大切にするに足るものではなかったか。
11章「現世へのもどりかた」
p268人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場から見たら存在理由があるに違いない。自分の目に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の目にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。
以上です。