評論文の背景 であることとすること

論理国語の「である」ことと「する」ことについての教材研究メモです。

(教科書は三省堂『新 論理国語』2022年3月検定済を使用)

 

本教材は

日本の思想 - 岩波書店

所収の、1958年11月の「岩波文化講演会」(1959年1月に毎日新聞に掲載)がもと。

 

章立て(()内は教科書で削除された章)

「権利の上に眠るもの」/近代社会における制度の考え方/徳川時代を例にとると/「である」社会と「である」道徳/(「する」組織の社会的擡頭)/業績本位という意味/

(経済の世界では/制度の建て前だけからの判断/理想状態の神聖化/政治行動についての考え方/市民生活と政治)

日本の急激な「近代化」/「する」価値と「である」価値との倒錯/学問や芸術における価値の意味/価値倒錯を再転倒するために

→教科書はかなりの章を削っている。

 

その他省略箇所。

・近代社会における制度の考え方、の節の省略箇所

新書p157

身分社会を打破し、概念実在論唯名論に転回させ、あらゆるドグマを実験のふるいにかけ、

→「概念実在論唯名論に転回させ」が教科書にはない

 

徳川時代を例にとると、の節の省略箇所

新書p159

町人は町人にふさわしくというのが、そこでの基本的なモラルであります。「権利のための闘争」(イエーリング)どころか、各人がそれぞれ指定された「分」に安んずることが、こうした社会の秩序維持にとって生命的な要求になっております。(以下略)

→「「権利のための闘争」(イエーリング)どころか、」は教科書にはない。

 

・日本の急激な「近代化」の節末の省略箇所 新書p175

「伝統的な「身分」が急激に崩壊しながら、他方で自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議と討論の社会的基礎が成熟しないときにどういうことになるか。続々とできる近代的組織や制度は、それぞれ多少とも閉鎖的な「部落」を形成し、そこでは「うち」のメンバーの意識と「うちらしく」の道徳が大手をふって通用します。しかも一方「そと」に出れば武士とか町人とかの「である」社会の作法はもはや通用しないようなあかの他人との接触がまちかまえている。人々は大小さまざまな「うち」的集団に関係しながら、しかもそれぞれの集団によって「する」価値の浸潤の程度はさまざまなのですから、どうしても同じ人間が「場所がら」に応じていろいろにふるまい方を使い分けなければならなくなります。私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで多少ともノイローゼ状態を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いていたところです。」

 

・「する」価値と「である」価値との倒錯の節頭の省略箇所 新書p176

「この矛盾は、戦前の日本では、周知のように「臣民の道」という行動様式への「帰一」によって、かろうじてびぼうされていたわけです。とすれば「國體」という支柱がとりはらわれ、しかもいわゆる「大衆社会」的諸相が急激にまん延した戦後において、日本が文明開化以来かかえてきた問題性が爆発的に各所にあらわになったとしても怪しむにたりないでしょう。ここで厄介なのは、単に「前近代性」の根強さだけではありません。」

 

・「する」価値と「である」価値との倒錯の節末の省略箇所。新書p177

「日本の大学における悪名高い教授の終身制は一面ではたしかに学問的不毛の源泉であり、なんらかの実効的な検証が必要といえます。けれども皮肉なことには、こうした日本の大学の「身分的」要素が、右のような形の「業績主義」の無制限な氾濫に対する防波堤にもなっているのでして、それほど文化の一般的芸能化の傾向はすさまじいといわねばなりません。」

 

・価値倒錯を再転倒するために、の節の省略箇所。

新書p179では、

「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないかと。」の直後にある、

トーマス・マンが戦後書いたもののなかに「カール・マルクスがフリードリヒ・ヘルダリンを読む」ような世界と言う象徴的な表現があります。マンの要請を私たちに私なりに翻訳すると右のような意味になります。」

は教科書では削られた。(トーマス・マンの何に見える言葉なのか?)

 

・学問や芸術における価値の意味の節で、

「教養においては—ここで教養とシーグフリートがいっているのは、いわゆる物知りという意味の教養ではなくて、内面的な精神生活のことをいうのですが—しかるべき手段、しかるべき方法を用いて果すべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと、これが問題なのだ。」

で、シーグフリートの『現代』を引用。

 

引用元は

シーグフリード、杉捷夫訳『現代 二十世紀文明の方向』(紀伊国屋書店、1956初版)

 

第9章技術の時代p203

「 さていま、問題を教養に移すと、観点はまったく一変する。しかるべき手段と、適切な方法を用いて果すべき機能ということが問題になるのではなく、物に対し、人間に対し、人生自体に対して、めいめいのとる態度が問題になる。自分自身について、自分と社会との関係について、自然・世界との関係について自覚をもとうとする個人の上に力点がおかれる。知的な形態では、いわば本来の意味での教養であり、宗教的な形態では、個人の精神生活である。彼のすることにそれはく(原文ママ)、彼のあるところに、あるという自覚をもとうと欲するところに、軸をおいた、人間の在り方についての同じ考え方の二つの面。(原文ママ

 たとえどんなに不完全であるにせよ、この定義から、教養の本来の性格がでてくる。本質的に個人的なものである教養は、各人によって自分のものにされねばならず、何人も人に代ってこれをひきうけることはできない。それに教養は利害を超越している。あるいは、少なくともそれ自身以外の目的、個人の完成ということ以外の目的をもたない。それが満足あるいは報酬をみいだすのはそれ自身の中においてである。技術と道徳との間には密接な関係がある。ここでは、関係は芸術との間にたてられる。芸術におけると同様、教養は解放であり、果実であるよりは花であ(以下p204)る。また結局のところ、それは単に到達点であるだけでなく、新たな人間的征服のための出発点なのであるが……。」

 

教材研究の一歩として、掲載元と照合してみました。

以上です。