文学的文章の指導では、主題をつかむことが大事だとよく言われます。
しかし、書き手の小説家自身、主題を答えるのは難しいこともあります。
原典不明の逸話ですが、
村上龍は、小説で描きたかったことを一言で言って、という質問に困ったそう。
(一応の出典として
なーんだ、そんなことだったのか!『寝ながら学べる構造主義』内田樹 | 文春新書
P128(第4章のロラン・バルトの「作者の死」に関する解説にて)
にあります。)
⇒作者さえも作品の主題を考えるのは難しい。
ところで、
石原千秋氏はしばしば
「受験で出る小説は道徳的な解釈が正解になる」
と主張しておられる。
では
pp34-36 Barthes, Roland『物語の構造分析』
物語の構造分析をふまえ、小説を1つの物語にまとめ、複数の物語を作る。
p192 研究者としてはノイズにも見える細部から複数の物語を作る。
しかし、受験で出る小説は道徳的枠組みでしか作れない。
ブログ主思うに、
石原氏の主張を言い換えると、
入試、特に先のセンター試験は、
いろいろな主題を読み取れるはずの小説から、
道徳的な主題を引き出すことに熱中しすぎということ?
入試のみならず、
授業でも道徳的な指導をしがち
(『山月記』では、李徴は自分の悪い性格のせいで虎になったという解釈で終わり)
という現場の声も。
例えば ちくまの教科書 > 国語通信 > 連載 > 授業実践例 > 第二章 小説
しかし、欲を言えば、
ストーリーメイカーを育む国語科教育についての一試論 : 文学作品の「理解の深まり」研究の批判的検討をもとに | 学術機関リポジトリデータベース
P213のいう、
「あるわかっていたこと(= 指導書的な解釈)を、わからなくする(= そうではない可能性を探る)」
に至りたい。
どうしたらいいかは、もうしばらく考えます。
以上です。