評論文の背景 論理国語の内田樹と関連ブログ - sazaesansazaesan’s diary
の続きです。
中学2年生の国語教科書にある
について。
という批判もある。
「学ぶ力」には、レヴィナスが関係する?
レヴィナスと愛の現象学 - 著者:内田 樹 | ALL REVIEWS
p21
暴力と聖性―レヴィナスは語る - 著者:内田 樹,エマニュエル・レヴィナス,フランソワ・ポワリエ | ALL REVIEWS
で、レヴィナスがシュシャーニ師を「知の大洋」と評する箇所を引用。
(原著pp153-155)
p24
内田氏は、「言い方を換えれば、これは師を「どれほどの努力をもってしてもその叡知を汲み尽くすことができない」人として「想定せよ」という「当為」の言葉なのである。」と解釈。
p41-42
でタルムードは独学できず師を必要とするとした箇所を引く。(原著pp12-13)
なお、「学ぶ力」と関連する内容は、
東大国語に出た 反知性主義者たちの肖像 - 内田樹の研究室
2016年第1問(教学社『東大の現代文27か年』第10版p31 )
・そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人
・この人はあらゆることについて正解をすでに知っている
・「あなたには生きている理由がない」と言われているに等しい
・その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力
・この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない
の説明を求めている。
その関連 沈黙する知性 - 内田樹の研究室
以上です。
11/6追記
ラカンの「知っていると想定された主体」という言葉
11/6追記
66巻7号 岡田敬司「教師とコミュニケーション」
も参考。
にある能楽 張良の話は、岡田氏の言う「教師によって制御された伝達」ではない。
(内田氏は張良のはなしをよくするが。)
11/14追記
東大国語の「反知性主義」に関連して
「自分の理論に間違いがあったことに気づく機会」
「無心」「無文脈的」=「不意にある動作がしたくなる」
「武道的思考」に出てくる「連続的な自己刷新」は
では、東アジア的成熟=「連続的な自己刷新を通じて別人になること」と説明される。
1/1追記 知性についての初期の言及として、
「真に知的な人は「自分の内部にはないもの」に対する感受性が発達している。」
「自分が自分でしかないことに対するうんざりした気分」
1/1追記
学ぶ力の議論は専門研究者にも向いている?
「トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々」
「知識のありかについての知識」
→教採対策 教育の目的④ 内田樹の成熟まとめ - sazaesansazaesan’s diary
のソシュールが学問における位置を知っていたことと比較。
〇1/1追加 内田樹の初期の師匠論(「学ぶ力」よりだいぶ難しい話)
「自分の「欠如」や「不能」を適切に言語化する能力を人間関係に翻訳すると、それは「ディセンシー」と呼ばれる。
求めているデータを待つときの忍耐と沈黙は「レスペクト」と呼ばれる。
インテリジェンスとは、「おのれの不能を言語化する力」の別名であり、「礼節」と「敬意」の別名でもある。
それが学校教育において習得すべきもののすべてである。」
(武道論の流れで言う説明)
「「私」を基礎づけるためには、「外部的体系」を迂回する「私のブレークスルー」を経験する必要があり、その自己解体と自己再生のプロセスにおいては、先導する「師」が必須である。」
教採対策 内田樹『下流志向』 - sazaesansazaesan’s diary
その諏訪氏の「生徒はもう存在していない」(『教師と生徒は「敵」である』)は
『エロスの世界像』(竹田 青嗣):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部
を参考している。
補足
ともに哲学上のエロスについて論じている。
なお、内田氏の
内田樹の原点、レヴィナス三部作、2冊同時刊行!『レヴィナスと愛の現象学』内田樹 | 文春文庫
は3章がエロス論。(注意 エロス≠性的)
『歴史の終わり』上巻 三笠書房
に出てきた?
1/2追記
コジェーヴについては、
2008年東大国語にも出た
『反歴史論』(宇野 邦一):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部
の第2章p191
「しばしば注釈の形で、ヘーゲルよりも一歩進んで〈歴史の終焉〉について語り、〈人類の絶滅〉ではなく、歴史が終わった後の人間について語っている。」