思想とはそもそも、という疑問へのヒントとなるものを紹介します。
『里という思想』(内山節、新潮選書)
p33「考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば昔は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこと、さわぎながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命をいただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗の中の米だけを見ても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体のなかへと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくり出した。
ところが、近代から現在の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていた。」
p202 「人間は誰でも、自分が暮らす世界の自然や歴史の影響を受けながら、自分の考えをつくりだしている。風土やその地域がつくりだしてきた時間の影響を受けている、といってもよい。だから人間の発想も思想も、基本的にローカルなものとしてしか、つくりだしえないのである。とすれば、欧米の人々が近代社会をつくる過程でみつけだした理性中心主義も、その理性がみつけだした真理も、ヨーロッパ的な、あるいはアメリカ的なローカルのものとしてしか成立していないはずである。
ところが、誰にとっても、自分が暮らしている世界は絶対的なものである。だから自分たちの発想や真理が、世界の真理としても通用すると錯覚しやすい。この錯覚が傲慢を生み、自分たちの考え方を世界中の人々に押しつけるようになる。そのことが、人間的とか理性的とかという言葉を伴って、実行されていくのである。」
p33の作法と思想の話は、鷲田清一の
や旧著の
第1章と併せ読むとなお興味深い。
以上です。