で気づいたことを述べます。
〇住居への執着
「夫、三界はただ心ひとつなり。心、もし、やすからずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今、さびしき住まひ、一間の庵、みづから、これを愛す。」
という草庵への愛を語る。続けて、
「おのづから都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、帰りて、ここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。」とやせがまんして、
「 もし、人、このいへる事をうたがはば、魚と鳥とのありさまを見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林をねがふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味も、また同じ。住まずして誰かさとらむ。」(p212)
という閑居を述べる。
しかし、草庵の生活の心地よさを述べた後で、そう述べた自分を反省する。
「今草庵を愛するも、閑寂に着するも、さばかりなるべし。いかが、要なき楽しみをのべて、あたら、時を過ぐさむ。」 (p217)
浅見氏の解説(p218)→草庵や閑寂への執着を反省。
要なき楽しみを述べる≒草庵の生活の楽しみを述べる、「方丈記」を書く行為
「静かなる暁、このことわりを思いつづけて、みづから、心に問ひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。」(p223)
出家するつもりで山にいるのに、心は汚れていると反省。
他にも執着。
〇音楽への愛着
草庵には、「すなわち、和歌、管弦、往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに琴、琵琶、おのおの一張をたつ。いはゆる折琴、継琵琶これなり。」(p162)とあるように、楽器も持ってきていた。
「もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独りをれば、口業を修めつべし。必ず、禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らん。」(p176)
と、修行に集中できないときがあることを告白。
「もし、余興あれば、しばしば松の響に秋風楽をたぐへ、水の音に流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとり調べ、ひとり詠じて、みづから情をやしなふばかりなり。 」(p176)
と、人のためではなく自分の慰めに音楽を奏でると言っている。
〇家族への執着
「山鳥のほろとなくを聞きても、父が母かと疑い、峰の鹿の近くなれたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。」(pp187-188)
〇世間体
「夫、三界はただ心ひとつなり。心、もし、やすからずは、象馬七珍もよしなく、宮殿楼閣ものぞみなし。今、さびしき住まひ、一間の庵、みづから、これを愛す。おのづから都に出でて、身の乞匃となれる事を恥づといへども、帰りて、ここにをる時は、他の俗塵に馳する事をあはれむ。」(p212)
→「おのづから~」では、出家後もときどき都に出て、自分を恥じることもあったとわかる。
以上です。