教採対策 教育思想史 エミールの冒頭

前回の記事で(世界の大思想・オリジナル版の『エミール』を引いたので、『エミール』の冒頭をまとめておきます。

(市民についての議論はうまく整理できませんでした。)

 

エミール・第1篇

P9「(前略)成長して必要とするものは、全て教育によって与えられる。

この教育の源は、自然か、人間か、または事物である。われわれの能力と器官の内部からの発育は自然の教育である。この発育をどのように利用したらよいかをわれわれに教えるのは、人間の教育である。そしてわれわれに影響を与えるさまざまな事物について、われわれ自身の経験によって得るものは、事物の教育である。」

(中略)

→教育の目的とは、

コントロールできない自然の教育の方へ、

ある程度コントロールできる事物の教育、真に自由にできる人間の教育を導く必要がある。

→自然とは何か?

「われわれがみずからの感覚をいわば意識するようになるとすぐに、それらの感覚を生みだす事物を追求したり、避けたりするようになる。そのためには、まずその感覚が快いか不快であるか、つぎにわれわれと事物との間に適合性が認められるか否か、最後に理性がわれわれに与える幸福または完全性の観念にもとづいて、われわれがこれらの事物についてどんな判断を下すか、それがその規準になる。この性向は我々の感性が発達し、知識が増すつれて、ますます拡がり確立していく。しかしそれはわれわれの習慣に縛られ、われわれの意見によって多少変質する。その変質以前の性向を、わたしはわれわれのうちにある自然と呼んでいるのである。」

(中略)

「しかしその三つの教育が相対立していて、人間をその人自身のために教育せずに、他の人間たちのために教育しようとする場合は、どうしたらよいか。その場合は〔三つの教育の〕一致は不可能である。自然とたたかうか社会制度とたたかうか、どちらかを強いられ、人間を造るか市民を造るか、どちらかを選ばなければならない。というのは両者を同時に作ることは不可能だからである。」

(中略)

P11

目的:人間であるか/市民であるか

→p12 教育形態

1公共教育〔公教育〕→プラトンの『共和国』(『国家』)→存在しない

2私的な教育、家庭教育

 

P12

・コレージュ(学院)や世間(社交界)の教育は公教育ではない。

「つねに他の人たちの利益だけを計る(原文ママ)ように見せかけながら、実は自分たちの利益だけしか考えない、二重人格の人間を作ること以外には適さないのである。」

・家庭の教育、自然の教育

→自分のためだけに教育を受けた人はどうなるか?

「社会の秩序においては、すべての地位がきまっていて、各人はその地位に応じて教育されなければならない。もしもその地位に応じて造られた人がその地位を去れば、その人はもう何ごとにも適さなくなる。教育はその人の運命が両親の天職と一致している限りにおいてしか有効ではない。そうでない場合はつねに、教育は生徒にとって有害である。」

p13「自然の秩序のもとでは、人間はすべて平等であるから、その共通の天職は人間という職業である。だから、そのためによく教育された人なら誰でも、人間に関することをうまく履行できないはずはない。」(中略)

 

ブログ主思うに、

p9コントロールできない教育があるという発想?

p13からは「人間に共通の教育」が想定できると思うが、それはどういうものか?

 

なお、『エミール』は育児、認識論、市民社会論、女子教育、身分制批判、衣食住、哲学、神学、歴史学・自然科学の学び方、女子教育、エミールとソフィーの悲恋と再会(ほぼ小説)など、もりだくさん。ほんとうにこれ教育本?とさえ思う。

 

以上です。